善い人というのは、他人にとっていい人のことなのだと思う。
変な皮肉や当てつけではなく、真実そうなのだと。思う。
態度が首尾一貫している、コロコロ考え方を変えない人。誠実とか、筋がとおっているとか。
そういう姿勢の人に私は好感を持つけれど。
なぜ好感を持つかを吟味してみると、そのほうが行動が読みやすい。分かりやすい。
私の予測を裏切らない、私にとって都合のいい人だからだと思う。
人の気持ちは、本来、コロコロ変わるものだと思う。
むしろコロコロ変わるほうが、人が人としてあるべき姿なのではないかと思っている。
「首尾一貫」は裏を返せば、考え方が固いということ。現在を見ないで過去に囚われること。
自分に許される自由な行動に制限を加えてしまうということ。
そういうのは、生物でない者の動きに近いと思う。
なのに、気まぐれがあまり良く言われないのは、つまり他人が困るからで。


「価値」というのは、人が見出すものだと思います。
(前も書いたかな。つーか何回も)
人生は無価値だと言う人がいます。私もちょっと思ってます。
そう言う人に、有価値なものの例をあげてみて欲しいと尋ねてみます。
これは私だったら「無い。何もかも無駄なことばかり」と、答えるでしょう。
ここいらの回答は、大体誰でも似たり寄ったりになるのではないかと思います。
この回答は、いくつかのツッコミ所を含んでいると思います。
一つは、全てが無価値であるという事は、価値について論じること自体も無価値であって、
何をそんなに嬉しがったりムキになったりして、一生懸命それを主張したがるのかということ。
もう一つ、本当に何もかも無価値ならば、「価値」という概念が存在し得ないのだから、
もはや価値について論じることは出来ないのではと。
少なくとも「価値」について論じているからには、彼は価値について何か知っているのであり、
「全て無価値」などと言っているのは嘘か、単なる強がり、思い込みなのだろうという事です。
「価値」は「意味」に読み替えてもよいようです。


なので、価値は価値観に依存するのだと思っています。
最近私は、価値観の多様化というものをかなり真剣に考えています。
何と言うか、生活していると、人のあるアクションについて腹を立てることが
一つや二つや三つどころではなく、常時腹立てまくりの状態です。
今日は、人が寝てるのに朝8ᛕに宅急便送ってくる某黒猫に腹を立て、
人のいるトコで爆発起こしてんじゃねえよと名も知らぬ犯人に腹を立て、
電車で故意かどうか分からんけど腕ぶつけてきた乗客に腹を立て、
歩き煙草で歩道に吸殻投げ捨てた若い男に腹を立てました。
まあ、一般的にコレ相手全然悪くないやんというパターンもあるようですが、
私から見れば悪い行いで、是非更生改善して頂きたいってなものです。
なんかそういう、一方的な価値観の押し付け、それをしたいと同時に、
他人から言わせれば言い掛かりのようなものでもあると、私はよく理解しているわけで。
価値が価値観に依存する。こう思っている私は、絶対的な価値基準の存在を
否定しているのであって、そういう意味では私の価値観を大きなものとして見られなくなる。
一般的に言われていることも、結局一般のレベルに留まるわけです。
だから、社会的に外れている価値観を持つ人でも、その人にはその人の真実があって、
それは単に一般と合わないだけなのだ、と考えてしまう、と。
何かを肯定したり否定したりが、真面目に考えると非常にやり辛くなってきます。


もし読まれるのでしたら、やはり3段下の初めから…
オチも何もありませんで。