正義は勝つのかどうかについて

自分は昔Rubyが好きだった。いや今も、どちらかと言えば好ましいと答える方の言語ではあるのだけれど。
昔(2000年頃)はもっと本気でRubyを支持していた。HSPを覚え、C++Java辺りを「ある程度」飲み込んで、
Javascript,VBSあたりを何となく把握して、D言語を使いこなす人に感心しながら、cgiを書くための言語として
Perl,Python等が視野に入っていた頃、一際美しく輝いて自分の目に映ったのがRubyだった。
どう美しいかに関しては自分より語れる人が沢山居るだろうからダンマリを決め込んでみるとして、
まあPythonはぶっちゃけ大して理解していなかったのだけれど、何となくRubyの方がスマートで簡単に入り込めた気がした、
Perlなんか比較にならん、RubySGEEEEE、な厨だった。
こんな凄い言語なら当然今後普及していくだろうから、今から覚えておけば近い将来絶対役に立つし!と思っていた。


実際Rubyがどうなったかと言えば、特にブレイクするでなく、一定の評価を得つつも一般に浸透という程の事もなく、
Railsが何となくブレイクっぽい感じになったのでこれで普及が加速するのではと期待を持って見守っていたら
案外そうでもなく何となくフェードアウトしつつ何かが1つ終わったような感じになった時点で、
「ああもうRuby先が見えちゃったな」と正直今は思っていたりする。
すぐに消えて無くなる事は勿論無いけれど、おそらく今後何らかのシステムを書き起こす際に
Rubyを選択する人はどちらかと言うと減っていくだろうし、自分自身、何かを書く時にRubyPython
どちらかを選択しなければならないとしたら、Pythonを選ぶ可能性が高いと思う。世界的に見ればPythonの方が
普及しているし、Pythonも十分素晴らしい方の言語だし……今の自分には、Pythonの方がキラキラして見えるから。


プログラムの正義の1つに、コードの美しさがあると思う。
Rubyはコードが美しい。Perlはコードが汚い。正義が勝つのであれば、Rubyが勝つ、という事になる、だろうか。


「正義は勝つ」という思想には、若干の中二的な香りを私は感じる。
ちょっと言い方が正しくないかもしれない。典型的な中二的思想は「別に正義が勝つとは限らない」だろう。
「正義は勝つ」はその前後にある思想で、正義が絶対的強者となる事を疑いなく信じている時期と、
中二的思想から脱却し、正義側に根本的な強さを見出す時期に抱く思想だ。
1つは歴史的に「勝てば正義」になるという事、もう1つは、そもそも多数に支持される行いが一般の正義であり、
多数ゆえに、信念ゆえに強いという事。少数側で正義を主張する人々もいるけれども、
一般の物差しで言えばそれは正義ではないのだ。


「中二的」と自分が言う場合、良くも悪くもそこに「子供っぽさ」を内在している事を意味する。
それは「若者っぽさ」でもある。ニュアンス的にはその中間ぐらいかもしれない。
底の浅さであり、短絡性であり、ある種の情熱でもある。主張の必死さであったりする。
無意味である事を無意味故に流すでなく、無意味を必死に訴える、そんな屈折した情熱であったりする。


話が逸れまくっているように思われる気がするので、本題に戻ってみる。
「正義は勝つ」のかどうかと言えば、当然それは展開によってどちらにも転びうる。
中二の人が言うように、勝てば正義という事にもなるし、世間が正義を負かす事もある。
ただ、それはそれでそういう現実があるとして、正義が勝つだの負けるだの、何か決められたルールの上で、
自分が干渉できない事のように語るのが、大人の態度ではないなと思うのだ。


人それぞれ、特に譲れない「これは正義だろう」と思う事柄があると思う。思うのならば、
その正義は守られなければならないと思うだろう。それが放置していても実現される事であれば良いけれど、
その正義がおびやかされるのであれば、それを守るために行動を起こす必要があるだろう。
単純に大声で訴えるだけでは世界は動かない、世界を動かす力学を理解し、どのように力が働けば
目的が達成されるのか、個人として大きな力を誘導するのか、自ら加わり大きな力のひとつとなるのか、
そのように主体的に正義と接するのが本来あるべき姿だと思う。
ノンポリを否定しているのではない。倫理の変革を意に介さない人もいるだろう。
自分が正義を思うにも関わらず、世界がその通りに自動的に動かない事を語るのは無意味だということで、
正義は本来、実現を導く事を目指すものであって「正義は勝つ」という第三者的な視点は
突き詰めると非常に投げやりで干渉を放棄した姿勢を暗に含んでいる気がするのだ。


何か偉そうな事を言っているけれど、自分が何か正義のために行動しているという事は特にない。
ただ、そのように思うと言ってみただけではある。
「自分の」正義を持ち、その実現のために頭を悩ます人々には敬意を持ちたいと思う。
逆に、時勢の影響が透けて見えるカジュアルな正義にはうんざりさせられる。そういったものは
非常に脆弱に見えるし、多分正義と認める程の存在にはならないだろう。