「やなぎだくにお」が2種類いるのを知らなかった。


私が生きるために日ごろ生物を摂っているわけですが、
いざその生物を目の前にすると殺すのを憐れに思ったりするわけです。
でも実際は殺してるし憐れんでる場合でもないんですが、
それはそれとして憐れなのも嘘ではないのです。


死刑制度の是非の議論なんかを聞いてて思うんですが、
死刑制度は無い方が、より健全な社会であると言っていいと思います。
あくまで、理屈の上では。
被害者感情という言葉がよく引き合いに出されますが、
そもそも、重大な選択において感情的判断を持ち出すこと自体誤りであり、
より全体にとって良い結果を導く方策をとるべきといえます。理屈で言えば。


という感じに、しばしば理屈と感情は対立しています。
この議論の場合は理屈と感情を支持している人間が異なるわけですが。
私個人の中にもこの対立があるわけで、実のところどちらの言い分も
理解できるわけで、結局どちらを優先したところで丸く収まったりしないわけです。
しばしばこの日記に自分の考えをのせたりしているわけですが、
その時その時の気分で時に感情を優先し、理屈を優先し、一貫性がありません。
また、理屈での判断に対して感情面から攻められたり、またその逆をやられたりすれば、
完璧な程に言葉に窮すると言うか、言い訳めいた弁解しかできなくなります。
意地でも一度言った考えを撤回せず、その方向に辻褄を合わせて論理を固めていく、
そういう議論の仕方もあるようですが、まぁ…、ちょっと偉ぶって言わせてもらいますと、
掲示板とかで、全く主張を曲げずにひたすら自分の正当性を押し通す人というのは、
あまり賢い人ではないなと、そういう印象を受けるのです。


でまぁ、もしそれでも丸く収めなければならないとしたら、
最終的な判断において優先するのは感情か理屈か、を決め打ちして、
それを互いに原則として諒解する、ぐらいしかないんじゃないかと思うんですが、
それは明確な判断の基準としては役に立つとは思いますが、
感情か理性か、どちらに偏った社会を想像しても、
まともな人間社会とは言えないような気がします。
そういうわけで、互いに妥協を重ねて中途半端な決定を下す現在の在り方が、
やはり最も人間的なんじゃないかとかキレイにまとめてもしょうがないんですが。
私はこの日記に全くの本心から思っていることを書いているつもりなんですが、
ある見方ではそのことは嘘であったり(嘘だと自分で理解して嘘をついている)、
故意に美しく見える方を選んでいたり、あるいは汚い方を選んでいたり、
(まあそれはどちらかは選ばなければならないのだけれども。)
つまりちっとも本音でなかったりするので、それがなんか寂しかったりします。


ああどうも最近突っ走りすぎて書いた後にいたたまれないことが。