ずいぶん前の話ですが。
小学校の時に遠足かなんかで作った湯のみがありました。
と言っても、私がやった事は筆でちょっと絵や文字を入れた程度ですが。
その造りの拙さも好ましくて、けっこう永い間愛用していたのですが、
ある日、湯飲みを運んでた時に中の熱いお茶が手に掛かって、落としてしまったわけです。
硬い板張りの床だったので、割れちまいました。
結構な落胆もので、女々しくも接着剤で元の形にくっつけて、未だに戸棚の奥に
保存してあったりするという逸話からも、当時の私の悲しみの深さを窺い知る事ができるでしょうか。できませんか。別にいいです。
一番心理的に辛いのは、
自分の不注意で大切に想っているものを壊してしまった。
というところです。
手が熱いのぐらい根性で我慢して、静かに湯飲みを置いてから「あぢぃぃぃ」と暴れれば
済むハナシですし、盆に載せて運んでも良かったのです。
非常に悔やまれる一件であったわけです。


私の年下の兄弟が、以前ハムスターを飼っておりました。
飼い始めてから最初の冬を越えられず、死んでしまったのですが。
飼っていた籠の前でじっと骸を抱きかかえていた妹の姿には、
何とも声のかけようがありませんでした。
ハムスターの飼い方の本に、ダイエットについて書かれたものがありまして、
その本の内容を受けて、彼女はエサにやるヒマワリの種の量を制限していたようです。
ハムスターが死んだとき、あの子はひょっとしてその事を悔やんでいたのではないだろうか、と
思ったりもします。


何か事故で、ペットやら子供やらが死んだとして、
私はどうも、その死んだ当人よりも、ペットの飼い主なり子供の親なりに、
より深い痛々しさを感じます。
そういう私の感じ方が、もとよりあるものなのか、最近の傾向なのか、
また他の人と違う感じ方なのかは、よく判らないのですが。
悲しさとは、そこに在るものではなく、
人がそう感じるから悲しさになるというもののことかもしれないです。


「私は人間が嫌いだから、獣医になったんです」
…か、かっこええ。
姐御と呼んでもよろしいでしょうか…? <ぉぃ