「駄目な奴」にも色々あって。
通常、現実に存在し得るところの駄目な奴と評される人というのは、例えば
 人は良いけど、仕事はできない。
 仕事はできるが、時間が守れない。
といった風な、それなりに長所らしいものはあるけれど、それを帳消しにして余りある程の
欠点がその人全体を評価付けてしまっている。
そういうレベルでの「駄目な奴」である事が多いわけです。
片や、駄目な奴は何をやっても駄目の駄目な奴というのは、
全てにおいて完璧な、アルティメット駄目な奴であるべきだろうと解釈できるのです。
なぜなら、中途半端に駄目な奴では「駄目な奴は何をやっても駄目」の命題そのものに、矛盾が生じるからです。
結局「駄目な奴は何をやっても駄目」というのは、帰結が前提を定義づけてしまっていて、
つまり「AはAである」というごく当たり前の事を言っているのに過ぎないのでは、と思うわけです。


とすると、「駄目な奴は何をやっても駄目」という理屈そのものは、全く無意味だとは思うのですが、
しかしこの理屈は、しばしば詭弁的な文脈の道具として用いられているようなのです。
「駄目な奴は何をやっても駄目」という理屈は、まあ真に聞こえるわけです。
しかし、先ほどの考えで行けば「駄目な奴」はやや幅の広い表現で、上の理屈が成立するのは
完全に駄目な奴である必要があるのですが、通常「駄目な奴」という表現はそこまで特性を限定したものではないわけです。 その曖昧な点を利用して
「Aは(不完全に)駄目な奴である」
「(完全に)駄目な奴は何をやっても駄目」
「Aは何をやっても駄目」
という、3段論法らしきものを打ち立てて、人を不当に評価付ける理屈として活用されている、
そんな気がします。


そういう、「対象のすり替え」のような技術に精通できると、
議論で勝つ事にはめっさ強くなりそうな気がします。
勝てるだけですけど。