善いとか悪いとか

あまりきちんと裏づけをとった事ではなくて、なんとなくそんな気がするという程度のことなのだけれど。


比較的最近、思い始めた事です。
今、一般に使われている言葉の「善悪」の概念は、
多分古来から日本にあったものとは異なっているのではないか、と。
今の「善悪」はおそらく、キリスト教(または他の幾つかの宗教)的思想のもの、外来の思想なのでは、と。
「古来から日本にある」というのはつまり、仏教的な善悪の概念のことで、
その含みはキリスト教とはかなり異なっているんじゃないかと思うのです。


キリスト教的な善悪というのは、もっと明瞭に言えば正邪のことで、
その行為や存在が道徳的か不道徳か、という事。
善は善、悪は悪。そういう属性は初めから決まっているもので、あとから変化する事はない。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは無意味で、人を傷つける事が悪いことだというのは
既定事項であるわけです。
敢えて理由を挙げるとすれば「神がそれを望んでいるから」ということになるのだと思います。


仏教的な善悪というのは、おそらくもっと曖昧なもので、禅とか業とか、
そういう言葉と同じ世界にいる概念だと思います。
仏教の善悪は、因果応報という思想に基づくもので、善い行為というのは、
良い結果として返ってくる行いのことです。
「なぜ人を殺してはいけないのか」と問われれば、それは悪い行いであり、
巡りめぐって己に不利益として戻ってくるからです。
悪い結果とは「死後に地獄に落ちる」という説明もなされるでしょうが、
生前でもあまり良い結果には繋がらないと思います。
つまり仏教は、善行を奨励はするものの、悪行を徹底的に非難するという立場は取らないわけです。
あなたが損をするのだから、そんな事はするべきじゃない、というわけです。


善悪の見方というのは、仏教の方が柔軟で、自由であり、納得できる理屈であるように思います。
勧めている行為は概ね同じようなものになるのですが、キリスト教の場合、
相反する思想の存在を決して許さないのです。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを、頭ごなしに否定し、酷い場合は断罪してしまう。
「もしかしたら相手の言い分が正しいのではないか?」という発想を封殺し、一切の妥協を許さない。
そういう徹底した姿勢が、良い結果につながるか、悪い結果につながるか、一概に評価はできませんが、
私の好みで言えば、その固定的な発想は、好きにはなれないところです。