勉強ができてもヒーローにはなれない

子供の学力レベルが落ちているという話を聞く。
ゆとり教育の弊害だとして、従来の詰め込み型の教育に戻せば改善すると主張する人もいるけれど、
それで問題が万事解決するなら、はなからゆとり教育を導入するなんて発想が現れたりしない。


私は、そもそもモチベーションが停滞しているのが根本的な問題だと思う。
「勉強さえできれば評価されるという考えは誤りである」という風潮は、もはや覆ることはないと思う。事実そうなのだから。
社会が学歴に対する評価を絶対のものとしなくなった、そういう雰囲気の中で、成績を上げることにどれだけの意味があるか。
しかし校内では相変わらず成績を上げることを要求される。社会で言われることと矛盾しており、
子供にしてみれば、結局どちらを目指すべきなのかわからない。大人の発言はいい加減だと判断し、
真面目に意見を聞き入れる気が失せるのだろう。
この問題については、子供の見識が浅いと言うよりもむしろ、大人の子供に対する姿勢が不誠実なのだろうと思う。



スポーツができる奴は人気があって、勉強ができる奴は取りたてて人気があるわけでないのはなぜか。
スポーツというものは基本的に、チームプレイであるからではないか、と思う。
100m走のような競技であっても、彼らはいわゆる選手としてグラウンドに出ることになる。
選手というのは、クラスや学校の代表であり、選手の勝利は、そのクラス・学校の勝利と認識される。
つまり選手は他人のためにも戦っているということになり、言い換えればみんなのために、ということにもなる。


その一方で、勉強の成績というのは、完全な個人主義の体裁になる。
クラスで一番の成績の人間が、クラスのために戦っている事になるシチュエーションは、通常は無い。
むしろ、他人の勝利は自分の敗北に直結しており、彼は私を負かすために努力しているのであり、率直に言って敵となる。
そういうわけで、基本的に勉強の成績は同位の人間にはネガティブに捉えられやすい構造になっているのだと思う。
自分だけの利益の為に努力するという行動は、素直に受け容れがたいものがあるだろう。
そういう意識も、勉強と直に向き合う気になれない要因として働いているんじゃないかと思う。


というわけで、
勉強ができることを、ポジティブなイメージに向けてやる必要があるのでないか、と思う。
例えば、スポーツ競技の形式をそのまま5教科の成績で適用してみたら面白いじゃないか、と。
例えば、特定分野に強く秀でた生徒を、もう少し大々的に賞賛する機会があった方がいいのではないか、と。
一つでも興味の持てる対象が見付かって深く掘り下げる事ができるのなら、他の科目はダメってのもアリでいいのではないか、と。


前から思っているのだけれど、全ての事を万遍なくこなさせる事を要求する教育は、一つの事に秀でる可能性のある
人間の能力を潰してしまうことになる…だけでなく、「全てを万遍なくこなせる」という才能を持つ人間の評価も
下げてしまうことに繋がっていると思う。ちょっとすごいね、程度にしか思われない。
人的リソースの無駄遣いじゃないかなと思うわけです。
社会で必要なことは、結局差し迫れば覚えざるをえないわけで、真に必要なものの取捨選択は、たいていの場合は
後からでも間に合うと思うのです。だから変に先回りして万遍なく中途半端に色々覚えるような、中途半端なマルチ人間を
ぽこぽこ生産して世に送り出していく教育制度は、上手なやり方ではないんじゃないかと、私などは思うのですが。