アレとか

ニコニコ動画のコメント入力システムは、賢い人達で入念に検討された上で生み出されたものなのだろうか。
それとも、直感的に何となく決定した方式が、たまたまうまくいっただけなのだろうか。


自分が初めてアレを見た時の感想を、今でも覚えている。
ダサいインターフェースだなと思った。コメントの裏に動画が隠れちまうじゃねーかと思った。
動画作成者によってそれなりに完成された聖域を、汚いコメントが土足で侵しているように見えた。


しかし、それでいいのだと理解するまでに長い時間は掛からなかった。
動画の枠外に置かれたコメントは視界の外に出てしまうから、リアルタイムに
視聴者に主張を伝えるには、コメントは枠内に無ければならなかった。
時に大量のコメントで動画が見えなくなるのは、歓声や怒号と同じく、
感情の強さのバロメータであり、代替案として画面の脇に数値で示されているような表現よりも、
その場で起きている事象をより正確に表していた。
さらなる勘違いは、コメントと動画作品は別の情報と考えていたことだった。
ニコニコ動画においては最早コメントは動画作品の一部となっていて、動画に加えてそれを見た各個人の感想、
または協力をもって、全体としてより視聴に耐えうる動画に仕上げている例が少なくない。
来訪者に少しずつ製作を参加してもらう事で完成させるタイプの芸術作品があるが、そういったものに近い。
だからコメントは、動画の枠の中にあって当然なのである。


この事ほどに、自分の第一印象の誤りを素直に認める気になった事はあまり無いと思う。



テレビの社会・報道系の番組では、放送側の主張が一方的に流される。
討論のような形式で結論を導き出しているようであっても、実際にはそれは予定されたものであったりもする。
しかし第三者の反論の隙が一切無いために、進行は全て放送者の思惑通りとなり、完結する。
放送権がそのまま意見主張の権利となっていて、一般人に主張の場は許されない。


ここで舞台がニコニコ動画となると、事態が大きく変貌する。
テレビの出演者が個人や組織の意見をさも市民代表の意見であるかのように主張すれば、すぐにツッコミが入る。
全く見当外れであれば、大きなブーイングとなる。この事によって、出演者の発言が
一般視聴者からどれ程外れているのか、外れていないのかが判断できる。
フォーマルなメディアにはとても載せられないような暴言や低俗な発言もあるが、
それ故に虚偽性が薄く、一つの真実として適切な結論を導くための判断材料となる。


ブログも個人発信型のメディアであり、これによって一般人の感想を拾い易くなったけれど、
動画にリアルタイムに付けるコメントは俊敏であり、的確であり、双方向性を維持している。
デジタル放送で放送局が用意するアンケートよりも、客観性がある。


ニコニコ動画のあり方は、今後あるべきメディアの姿(テレビや新聞等の既存のマスメディアとは別の)
の方向性を表しているように思う。
ニコニコ動画の前身のようなものが2ちゃんねるであったとすると、その進化のさせ方には
なるほどという気がしなくもない。


ネットの世界はまだ進化していくのだろう。ネットが進化を続ける間は、既存のメディアは静かな
衰退を続けていくのだろう。