「人は利己的な生き物である。他人の為の行為などない。
 全ての行為は、自己の利益の追求の結果である」
とか、
「忙しくてできないのではなく、他事に時間を取られている振りをして、
 解決しなければならない問題から逃げているのだ」
とか。
この例に類する傾向の、「一見理知的で否定的な指摘」には、
ちょっと注意しなければならないなと思ったのです。
こういう言い方には説得力があって、人にこんなことを言われると、つい
「そうなのかな」とか、思ってしまったりします。 しませんか?
ある意味では確かに真実なのかもしれません、が。
やはりこれは、ものの一面としての見方だと思います。決して全てを表現してはいない。
ここでは否定的な言い方をしているけれども、本当にそれは否定されるような事
なのだろうか。そういうことも、考えなければならない。
説得力がありすぎることが、問題だと思うわけです。
もともと言葉の表現は舌足らずなものばかりで、多面的かつ短い言葉の表現なんて、
そうそうそこいらに転がってるようなもんではないと。
それなのに、理知的で否定的な指摘はどうも、うっかりすると
安易に受け入れてしまったりしてしまうのです。 しませんか?
ていうか自分がそういう性格なだけなのかもしれないんですが
非難されるとですね、自分の言い分を探すわけです。でも相手の論理がしっかりしてると、
こっちで反論を考えても、なんか言い訳っぽく感じてしまうわけです何故か。
なんとなく、自分がその問題から逃げてるような気分になってきてしまいませんか?
でも本当は、単なる言い訳も筋が通っているならば、同程度の真実性を持っているはずなのです。
否定的な言葉には、インパクトがあり、印象にも残ります。
印象の強さは、元の意味が持っている嘘本当のイメージを増幅します。
元々本当っぽい言い分は、それがより強化されて聞こえる、そういう効果もあると思います。
言葉の鋭さと、その真実性は必ずしも相関していない。
そういう意識を持っていたほうがいいかも知れないですね!と、思ったりしました。