表題:自由なんて。
「誰にも束縛されない」
プラットフォームの雑踏で、知らない誰かの会話からその言葉だけ抜き出されて、
なんか耳に入ってしまったのですが。
私も束縛が好きか嫌いかと訊かれれば嫌いと答えるタイプの人で。
じゃ自由を求めるってどういうことなんだろと、考えたわけですが。
例えば、行動範囲が制限されていたり、視野が狭い、固定観念に捕らわれている、
こういうのが不自由な状態で、そのように在りたくない、ということです。
しかし、人が自分の命令に従わないから不自由だとか、
世界が自分の思うように動かないから不自由だとか、そういう風には普通、思わないわけです。
自由というのは、
「本来自分にあるべきではないこの制限とあの制限が取り払われた状態」
という、結局狭い物事しか眼中に入らない発想のような気がするわけです。
全ての自由は通らないので、制限の解除があまり現実的でない事項については
無意識か意識的にか横線を引いて、残った項目たちを指して「自分の自由」を定義づける。
その定義と自分の今の状態を比較して、要求が満たされていない場合に不自由と感じる。
そして、自由の定義の解は基本的に、自分以外の人々の状態から求めているわけです。
みんなそうなのだから、自分もそこまで自由は求めない。
みんなそうなのだから、自分もその自由は欲しい。
結局他人との比較による相対的評価の決定であり、不自由の不満というのは、
他人よりも自分が不利な状態にあることに対するストレス、という表現に還元されてしまうのではと。
もっと柔軟に自由を考えるならば、例えば鳥みたいに自分の力で自由に空中を移動することが
できないことにも不満を感じるべきかもしれない、んですが、
しかし理知的な人間は「それは人間には無理だよね」と、言ってしまうわけです。
「自分は自由人だ」なんていう意識がかけらでもある人は、
少し、己の自由に対する考え方を再考してみる価値はあるかもしれないかなと。


一応、ねぇ。
誰かが読んで、楽に読み進める展開になるようにしたいという意識だけなら、
持ってるんです。持ってるんですが。
でも、そうなってはいないんだろうなあ。
とりあえず、パラグラフはこまめに切るとか。
結論ぽいのを初めの方に持っていきたいとか。
(途中で読まれるの中止されても被害が少ないし、全体として興味を引きやすい筈だと思っている)
断定的な表現を避けて、読者に「何だコイツ」とか思われないようにするとか。
(こう書くと、いかにも打算的なテクニックぽくてナイスだなあ)
テンポよく行こうとか、リズムを乱して読む人が眠くならないようにしようとか。
極論を持ち出して心の中でツッコミ入れてもらおうとか。
どうかなあ…。
ちょっと長くて重いのを出してしまった時は、
「これ多分流し読みだろうな…」
とか、思ってます。