とあるサントラを聞いていて思ったのですが。
音楽全般に言えるでしょうが、BGMと呼ばれるものは特に、
悲しさや明るさ等、そのシーンの雰囲気を演出するものである必要があります。
悲しいシーンでは、悲しい旋律を流す必要があるわけです。
そういう曲は、リスナーがそれが悲しさを伝えていると理解できるように
作らなければなりませんから、非常に典型的、ベタベタに型にはまって理解し易い
悲しい曲にしなければならない、少なくとも演出家にはそうしろと言われる筈です。
明朗な旋律の中に埋め込まれた暗いコードに、人の葛藤や対比して浮き彫りにされる真の悲しみを
表現しているのだよと主張しても、視聴者にそれが理解できない可能性があれば、
演出家はボツにするでしょう。
むしろ型にはまっている、イメージしやすい曲の方がBGMとしては優秀なのです。


音楽に限らず、アーティストは常にこの手の葛藤を持っているのではないかと思います。
(というか、持っているべきだと私は思うのですが、持っていない人もいるのかも知れないです)
何かを表現するのは、それを誰かに伝えるためです。
究極を求める一方で、生産物は人に理解されなければ意味がない、
究極に突っ走ってしまうと、表現の受信者が付いて来られないのです。
創作者が思うところのレベルを単純に上げれば上げるほど、受信可能な集団は小さくなっていくと思います。
恐らくアーティストが取りうるところの態度は概ね2つ。
・一般受けは切り捨てる。極論誰に理解されなくても、自分の至高の作品を目指す。
または
・極大または特定層の観衆を意識して、彼らが理解可能な制限の中で作品の質を引き上げて行く。
まあ、その中間もあるでしょうが。