冷蔵庫に、ちょっと喰う時期を逸してしまったベーコンがある。
賞味期限が4月6日。
知人に、ベーコンはどれぐらいもつのか、いつまで食べられるのかを訊ねたら、
「腐ってなければ、食べられますよ」といわれた。
その時は納得して、じゃあ食べられるかな、等と思ったのだけれど。
後でよく考えてみると、それって当たり前じゃん、とか思った。


前々から、精神科とか心療内科のような所に一度は行ってみたいなと思っている。
自分にとって、とてもためになる話を聞かせてもらえるのではないかという漠然とした期待があって。
ごく身近にありながら、今まで気付かなかった事に気付かせてくれたりするのではないか、とか。
しかし、具体的な症状が無いのに医者に診てもらうのは説明に困るし、行くのが億劫でもある。
かといって実際病気になっても困る。
「人前に出るとあがってしまうんです」とか相談しに行ってもいいんだろうか。
ネットやテレビでいろいろ話を聞くと、私には鬱病になりやすいタイプではないかと思うので、
機があればいつでも伺ってみることにしよう、とココに書いて、動機付けを強くしてみたい。


ただ、私は思うのだけれど。
鬱病」という呼び方、〓病などというと、何かこう、治さなければならないものみたいなもののように
聞こえるのですが、んん、何と言うか。
掛かった本人が、辛くて、生活上支障もあるので治したい、と考えるのは別に全然構わないのですが、
鬱病」という状態を悪いもののように言って、あまり外野から治せ治せゆうのは、
なんかやりすぎのような気がします。
鬱病という状態は、その時の心の状態、それはその時のその人の性格であり、
世界に一つだけの花だと思うわけです。
極限状態のその人の人間性が、何か社会に有益なものを生み出すかもしれない。
個性の多様性を考える場合、鬱病状態の人間を一般的平均的な状態の人間の側にシフトさせてしまうのは、
ある意味人類の可能性の損失であると思うわけです。