物事を善と悪に分けてしまう、そのようにししか考えられない人の根本的な誤りは、
善かつ悪である状態、を理解できないという事ではないか、と思った。
要するに、みる者の立場によって物の価値は変わる、というような事だけれど。
人にとっての薬でかつ細菌にとっての毒である、とか。
多数の人に大して良い影響を与える行為・ものはあると思う、ただ、
基本的には絶対善は存在しないというのが、無難な考え方であると思う。
仲間でない側の被害を良しとする、または黙殺しているために、善い物たりえているのだと。
全ての存在にまで配慮が回らないのは仕方が無いので、
問題はどこまでを仲間と考えるか、という事でもあるかなと。
広くは地球上の全生命から、哺乳類、全人類、同民族、同組織人、近い友人、家族、自分のみまで。
線引きが同組織人あたりまでくると、独善的と言われそうだけれど、
同民族ぐらいなら、充分肯定される国も有りそうな感じ。


「独善的」と『言う』のは、少なくとも人であるわけだ。
で、道徳的平衡感覚を持つ人を無視する場合、
言うのは仲間の外側の人なわけだ。
つまり逆に考えると、その組織の道徳的平衡感覚が欠けている場合、
その組織の内発的な自己抑制は期待できず、独善的に行動を開始してしまう。
その組織が大きな力を持っていたら、独自の正義を振りかざしてかつ勝利を手に入れてしまう。
彼らに拮抗する力で誰かが止めなければ、彼らの正義は決して省みられる事が無い。


「拮抗する力」は暴力である事もあるし、そうでない事もある。


何かを正さなければならないと思った場合、
そういう何らかのインパクトのある力がどうしても必要だ、ということだろうか。
もちろん、相手に道徳的平衡感覚があれば、そこまでの手間は掛からないのだけれど。


短く纏めると、
善いと信じられているものは、自身によっては省みられない。
こんな感じかな、
…とか抽象化してみると、自分にも思い当たるフシがでてくるような…