真の無宗教者であれば、自分又は親族の遺体がゴミ焼却場で処理される事に、何の抵抗もないのだろう。
私は無宗教、と宣言するほどに己の宗派について考えたことはないのだけれど、
自分の遺体が月曜の朝に袋に詰めて出される事には、それほど抵抗は感じない。
でも、親族の遺体となると…、正直厳しい。抵抗バリバリであるフシギなコトに。
まあ、それはともかく、私の死生観的には、『魂』や『霊』といった存在を無いものと
決めて掛かるのはやや尚早、根拠にまだ充分な不足が見られると思っており、
まあ当座はその存在の有無は己に関わらないと見て実害は無いかもしれないけど、断定まではしない、という感じで。
ただ、人のその人らしさを真に司る機能の大部分を脳が抱えているのはほぼ間違いないと思われて、
やはり脳がダメになってしまえば、「その人」はもう戻ってはこないだろうと思ったりする。
脳の情報が何らかの形でバックアップされていると、また話は違ってくるのだけれど。
魂だの霊だのは信じるとしても、肉体は所詮物理的なもので、言わば魂が支配する道具に過ぎない、
という感じを自分は持っていて、それ故に機能しなくなった身体がどのように扱われようが、
もう終わっちゃったんならどうでもいいやという気がして、なのでまあ自分は生ゴミとして
処理してもらっても良いんじゃねーの?って気持ちであったりします。


さて、ついさっき書いた事にあっさり矛盾する話題で恐縮ですが。
私が死んだ後の葬り方を自由に選ばせて貰えるのであれば、
取りあえず焼いて、粉々にして、海に捨てるか山に捨てるか、空からばら撒くとかして貰えると、
ちょっと嬉しいですなと思います。
ツボに入れて蓋をして、さらに地中の部屋に入れて上から重い石でフタまでされるとなると、
さすがにちょっと気が滅入ると言うか、そこまでムキになって閉じ込めるこた無いじゃないですか、と。
狭い肉体から解放されたのだから、この際大々的に世界に飛び散って自由になりたいな、とか。


「むしゅうきょうしゃ」を漢字変換すると、まず「無臭強者」と出ます。
普通の強者は臭いのだろうか。
こんなに強いのに、全く臭わない、なんて奴だ!
とか、意味不明に妄想したりします。