なぜ弱者をまもるのか

「かわいそうだから守るのだ」と言ってしまう人がいる、と思う。
その気持ちに悪意が無い以上、あえて批難しなくてもという気もするし、一応理解はできるけれど、
まあ、私としてはあんまり、それは好ましくない動機なんじゃなかろかという思いがある。
「かわいそう」という考え方に上の立場から相手を見下ろした含みがあり、嫌味が残る。
もう一つ、「かわいそう」は主観的で感情的なものの見方で、つまり「かわいそうでなければ守らない」
という考え方に当然落ち着いてしまうんだろうと。それはまるで、
「弱者であっても自分の気にそぐわなければ守らない」という宣言のように感じられてしまう、のだ。


別にいい、それでもいい、けれど。
その言葉を発する人間が、自身の偽善性・不完全性を自覚していて、それでなおそれを主張するなら、
別に私は構わないのだけれど。(構わないどころか好ましいぐらいだけれど。)
自身の偽善性に気付いていず、その上周囲の人間にある種の不快感を与えるような
(例えば善行を強要するような・協力しない人を批難するような)人間が、私は不満でならない。


しかし不満だけれど、それでも彼らにはそれなりの功績がある場合もあって、それはそれ、
認めるところは認めるべきで、だからまあ素直にやめろとも言えないわけだけれども。