日記

本屋を徘徊していたら、詩のボクシングの本があった。
若林さんの話が出ているかなと思って開いてみたら、案の定、当時の詩などが掲載されていた。


正直な話、時がたつにつれて私は、最初に彼女の詩を聞いた時の感動は
彼女の纏う雰囲気と声質に惑わされた物であったのだろう、と、心の隅で思うようになっていた。
(もちろん、詩のボクシングはそういった要素も含めて勝敗が判定される。優勝は偽物ではない)
つまり、本体の詩の方はそこそこ、上の中〜上程度だったのかもしれないと、ちょっと軽んじていた。
「上の中〜上程度」が大したことではない程の衝撃が、当時の自分にはあったのだ。


しかし、きょう改めて詩を読み返すに当たり、その認識は間違いだったと思わされた。
この詩は単体で読んでも、私にとって確かに優れた作品と感じられた。
白い紙に印刷された文字を追いかけるだけで、私の脳裏には見渡す限り金色のひまわり畑や、
静謐な森の緑や、空虚で冷たい空気の流れる学校の廊下が、はっきり映し出された。
作品に入り始めてから、作品が周囲の空気を変えていくまでの時間が、とても短い。


これだけ色や情景が鮮烈にイメージされる作品は、他で見掛けた記憶があまりない。


家に帰って、「若林真理子」をGoogleで検索したところ、特に目新しい情報はなかった。
当時は童話作家になるのが夢だと言っていたと思うが、今はどうしているのだろう、と思う。
2ch掲示板がヒットして、ちょっと読んでみたら
ロリコン受けしそう-内容は低レベル」みたいな書き込みがあって、ひどく興冷めした。
前半の指摘は割と当たってるかもしれないと思うのだけれど、それを「低レベル」と
断じてしまえる人間というのは、その人の自信は一体どういう物で構成されているんだろう、と思う。
彼が悪いといった物が、彼以外の全ての人間が良いといった場合に、彼はその発言に対して
責任を感じないのだろうか。
過去にいくつか別の作家の作品を読んだだけで、確かな視点が身に付いたと、どうしてそんなことを
思い込めるのだろうか、と、不思議というか、それは自信過剰では、と思う。
2chだから」ということではなく、現実に自分勝手な視点で作品を評価する批評家は存在するわけだから。


絵やら文章やら音楽やら、全ての芸術作品は、基本的に既存の何かを踏襲したものであると思う。
既存の芸術と似た体裁をとっていなければ、他人の理解も、自分自身の理解もまず得られない。
彫刻を作るには、自然界に存在する、自分の感性に合う石をベースに作り出さなければならない。
石を自分の力で生み出すことは、人にはできない。
詩を作るには、誰かが使っている日本語を集めてきて、自分の感性でならべる方法しかない。
日本語を自分の力で生み出しても、人には伝わらない。


ただ既存の作品から気に入った表現を切り集めて、乱数的にコラージュしただけの作品が
人を感動させることはできないに決まっている。多分。
文脈で意味を為さないものは、それこそ作品などと呼べる代物じゃない。
(例外的な芸術はあるにしても、作品である以上は、何らかの文脈や意味がある筈だと思う)


元が何でできていたとしても、この作品が私に感動を与えたことは、絶対に確かなことだから。