他人と深く理解し合う事

私が赤に見えるものが、別の人には(私の言うところの)緑に見えていて、
しかしその人にとってはその緑色がまさに赤のことで、
だから私も彼もそれを「赤」だと呼ぶのだけれど、脳裏に浮かぶイメージは異なっている、
そういう事があるんじゃないかと、ずっと前に考えた事があって。


それと全く同じ事を以前ビートたけしが言っていて、ああ同じ事を考える人がいるんだなと、思った事があった。


別の人間同士、同じ言葉で語り合い、同じ概念を共有できる事ができるように思えたとしても、
その内部の仕組みは全く異なっているかも知れない、あるいはそれが当然なのかも知れない、と思う。


例えばブラウザというアプリケーションがあって、W3Cの仕様に則っていれば
どのレンダリングエンジンを使用しても概ね同じ画面が表示されるのだけれど、
実行ファイルをバイナリで比較しても、同じような部分を探し出すのは不可能と言っていい程で、
ソースコードで比較した場合でも、類似した構造はあるかもしれないけど、
関数毎に1:1で符合する程に似てはいないだろうと思う。
実行中のメモリイメージも、全く異なるはずだ。


別の人間同士にも、そういう関係が起こっているだろうと思う。
言語や概念を共有できるのは、あくまでインターフェースのレベルで共通化されているだけなのだろうと。


その説でいくと、テレパスが実在するのは難しいと思ったりする。
人の考えている事を言葉で読み取るのは、バイナリの機械コードを見て意味を読み取る事や、
画像フォーマットの不明なバイナリを見て元画像のイメージを推測する事や、
全く自分の知らない言語で話している内容を瞬時に理解するのに似た難しさがある、と思うのだ。


もう少し、浅いレベルでなら。
例えば、ある特定の感情を持つときに、脳内の特定の部位が興奮する特性が一般の人間に共通に見られる場合、
その反応を読み取る能力があるとすれば、いわゆる第六感として他人の感情を読み取る程度の能力は
持つ事は可能かもしれない。
ただその場合でも、「一般の人間に共通に見られる」からこそ、相手の内面を推し測る事ができるのであって、
共通インターフェースよりも低レベルの概念を別の人間と共有するのは、やはり無理なのではないかと思うのだ。