遺書

いじめの問題に対して、被害者が文科相に苦情の手紙を送るという行為は、私はとても正しいと思うのだ。


いじめが社会悪であるのは、共通認識となっていると思う。
文科相辺りなら少なくとも口では「あってはならない」と言うだろう。
にも関わらず、現実にいじめが残っている事はここ10年程度のマスメディアの報道を見ても明らかだろう。
事例の数を考えれば各校で個別に対応するべき問題というレベルを超えており、
まして現場に携わる教師にすら信用が置けない(ろくでなしが少数以上存在するのも報道から容易に判断できる)
という状況にあっては、学校を統括する組織が問題を認識し、抜本的な対策を打つ必要があったはずだ。


その中で何の非もない子供の中から死亡者、精神的な傷病者が多数出ているにもかかわらず、
対策を怠って事実上の「見て見ぬ振り」を続けていた文部科学省は、当然非難されるべきではないのか。


と、いう考え方もあるかな、とか。
まあ対策は口で言うほど簡単にできるもんじゃないかもしれないけど、子供が死んでるんだからね。
人の命が重いと公言するなら、それなりにその発言の責任を示してもらわないと納得できないよね。



黙って死ぬ人間よりは、死ぬ前にせめて屁の一発でもかまして頑張ってみる人間のほうが、
私には好ましく思える、という事です。
殺されるほど追い詰められて、しかしそのまま死んでしまうという人間は、
…哀れだとは思います、不幸だとも思います、弱さもまた個性であるとも思います、しかし、生き物としての生命力が足りなすぎる。
自殺するのはある程度は本人の自由だと思いますが、やはり敬意を持てる立派な人間には見えません。


…。
まあ、子供が強くなるまで育てるのが大人の義務なので、
大人が悪いのですけれども。子供に非を求めるべきではないのですけれども。


まあ、アリか。自殺も。仕方ないか。当事者がそれを希望するのは。
車に当たったって死ぬときゃ死ぬんだから、死んではいけないという理屈に説得力を持たせるのも限界があるし。
でもまあ、殺されるぐらいなら殺すっていうのは、生き物の道としては正しいと思う。
逆に殺されそうになって、それに屈する形で命を絶つという選択は、生き物としては悪だと思うんだよね。