究極のラーメン

父親がラーメン職人で、それを見習いつつも独立し、究極のラーメンを目指す男の話があった。
ずっと昔に見たテレビのドキュメンタリーだったと思う。
その男のいう究極のラーメンは、それを食べた誰もが全てのラーメンの中で最も旨いと思うようなものの事であったと思う。
そう言う息子の姿勢を見て、半ば引退した父親の職人は苦笑いを浮かべながら『そういうもんじゃねえんじゃねえかな?』
的なことを言っていたと思う。


その親父は多くを語らなかったけれど、私は何となく彼の言わんとするところを想っていた。
人ひとりひとりの味覚はそれぞれ違うのだし、体調や気分や昨晩食ったものによっても今食いたいものは異なる。
究極のラーメン等というものは存在しない。それよりも目の前の客を見て、相手が満足する一杯のラーメンを
作ることしかできないのではないか。
誰に食わせるかも決まっていない究極のラーメンとやらが一人歩きして、それなりの食材を使ったそれなりに旨いラーメンが完成したとして、
これは旨いラーメンださあ食えと、半ば旨いと答えることを客に強要するような姿勢は職人として傲慢なのではないか。
旨いかどうかは舌の肥えた職人が決める事ではなく、ひとりひとりの客が決める事なのではないか。


一方で。


高級料亭の職人が、普段マクドナルドしか食わないような若者に料理を不味いと言われたら、
「手前らの感覚が狂ってんだろ」と言いたくもなるだろう。料理人が客を選ぶなんてのはおこがましい事だが、
どう考えても世界が違うという場合もある。遙か高みを目指す者底辺をさまよう者が評価を同じくすることはあり得ない、
それは当然のことののように思われる。
しかしそれを否定せず、全ての人間に共有できる価値観を抽出し誰もが旨いと感じる形にまとめ上げる、そんな
「究極のラーメン」という幻想を信じ、それを目指すのはすばらしいことではないかという気もする。


このエントリを書き始めた時は後半の展開は考えてなかった