ヒューマニズム

いつの時代もヒューマニズムが叫ばれているのは、つまりは人間がヒューマンでないからである。


という内容のことを、星新一のエッセイで読んだことがある気がする。
星新一はまた誰かの言葉の引用として使っていたかもしれない。
この指摘は、割と長い間私の心に留まってきていたと思う。


私らが「人間的」という言葉を使うとき、それはしばしば一般的な人間像を示してはいない。
本来は人間が人間的であるのは当然のことなのだから、この評は意味を持たないはず。にも関わらず
この言葉が使われるのは、平均的な一般人に「人間的」であることを期待できないからなのだろう。
人間的とは、人間を超える人間性を備えていることを指して評する言葉なのだ。
そんな超人的な性質を指してわざわざ「人間」という単語を用いているのは、人間全てが
そのようにあって欲しいと思う誰かの淡い期待か、あるいは本当の人間は本来そのような
崇高な性質を持ち合わせているのだという過大評価なのか、まあ私は知らんけど。


私が「人間的」という言葉に引っ掛かりを覚えるのは、なんだかまるで、他人を見捨てて
自分の身の安全だけを考える者、勇気を持って立ち向えない者、人を殺して財産を奪う者を
人間ではないと言うかのような意味を含んでいるから、かもしれない。
それは、彼らを人間として認めない傲慢に対する怒りであったり、現実から目を背けて
人を美しいものと無理矢理信じ込もうとする逃避に対する冷笑のような感覚である。


言葉として存在しているものを今更否定してもあまり意味はないのだけれど、安易に「人間らしい」
なんて言葉をうっかり口から滑らせてしまうのは、少し恥ずかしいことのようにも思われたりする。
(まあ自分も普段から使ってはいるのだろうけれど)


人間なんてそんな立派なモンじゃないよ、という意味でもあるし、ダメな部分も含めて
人間らしいということなんじゃないか、とか、極論としてはダメな部分も持っているのが
人間らしくて好ましいところなんじゃないか、というような感じがするのだ。


例えば犯罪の起きない社会があったとして、それが素晴らしいとすれば、旧社会の弱点を克服できたこと、
犯罪が社会にとって無益であることに人間全員で同意が取れたことにあるのではないかね。
人間である者と人間でない者を区別して、非人間を排除できたことに喜びがあるわけではないのではないかね。
ちょっとムリヤリかな?