学校

今になって思い返してみると、小学校中学校の中の社会というのは、相当歪みを抱えたものだったなあと感じる。
外の社会が歪んでない訳ではなく、また歪みに捕らわれて大きな損失を被る子供ばかりでもないのだけれど。


最たるものはいじめかもしれない。が、他に、受験勉強というものも相当本質を見誤ったスタイルであったと思う。
個人の理解度に無関係に進む授業や、一律を良しとするスタイル。
子供のうちにそれらに疑問を感じたことは一度はあると思う。子供の何故?に正しく答えられるだろうか。
はっきり言って、学校側が推し進める方法論が間違っている点が少なからずある。
教育論でどうかは知らない。しかしもし同じ事を大人に強いたとすれば、アホらしいと放棄されたり、権利侵害で提訴されかねない。


なぜそうなるのか。
一つは、学校の閉鎖性だろうか。実際に閉鎖されているわけではないのだが、学校はそういうものだとの暗黙の認識が
無言の抑圧となって、学校が自ら変化することを妨げている。良識のある大人が教育制度に干渉せず、
不備が修正されないまま放置される。大人は最早直接学校に関わらなくて済むのだから、子供の苦労など他人事である。


一つは、子供に自治権が無いことだろう。
子供は学校を変えることができない。やろうとすればやり方はあるけれども、そういう権利が公に認められてはいない。
これは、子供は判断力や行動力が未熟であることも関係している。それ故に子供に管理権限を与えることはできないのだけれど、
しかしそれを理由に、大人がいいように権利を振りかざしている点も否定できない。
人として未熟であるために、権利も軽視されているのである。


一つは、これも前述とかぶるけれども、発言力や行動力が少ないことだろう。
政界とコネクションがあるとか、金があるとか、弁術が巧みであるとか、ネットで大々的に訴えかけるテクニックがあるとか、
何者をも跳ね返す鉄の意志を持つとか、権利を獲得するまで全員で登校を断固拒否するとか、
そういった素養に欠けるのだ。欠けるに決まっている。そんな子供ばかりであったら恐ろしい。それどころか、日本の将来が明るすぎる。
それらのハンディが大きいために、子供の視点からの環境改善は困難なのである。


しかし、アホらしい事は多かった。
数年がかりで学んだ英語が全く身に付いてないとか、睡眠時間を削った試験勉強の内容を今全く覚えていないとか。
一夜で漬けたってダメなのである。だから、そういう後に残らない勉強法が使えるような試験形態はダメなのである。
後に残らない勉強を教えることもダメなのである。
残ったものはある。それは認める。が、効率悪すぎだ。心底そう思うが、どうだろうか。
いじめだって、被害者が大人であれば賠償請求する知恵や勇気ぐらいは持っている(人もいる)。その能力が子供に
不足していることが明らかなのなら、もっと大々的に正当な反撃のための知恵や権利を授けても良さそうなものだ。


と、書いている内に不満が色々湧いてきたのだが、今や自分の方がこっち側となっている事実には
ついうっかり目を逸らしてしまったりする<それはダメなのである。