ゆとり教育について

このエントリは昨年の学習到達度調査で、日本の子供の学力低下が指摘された時に書き留めておこうと
思った事なのだけれど、何となく心に溜め込んだまま、2ヶ月ばかり過ぎてしまった。
最近ちょっと気が向いてきたので、書いてみることにする。


ゆとり教育」というものの目的が、生徒にゆとりを持たせるためのものだと思っている人がいる。
何か多大なる誤解をしたまま、ゆとり教育学力低下の全ての根源だと主張する人がいる。
彼らは全く、以前の詰め込み教育の方針に戻せば、時計の針を戻すようにPISAの順位が以前の水準に
戻るものと考えている(らしい)。
なるほどそれは、確かに試してみなければ判らない。やってみる価値はあるかも知れない。
しかし、ごく冷静に、ごく常識的に考えて、そう都合良く丸く収まる問題であるのだろうか。
彼らは本気で、そのような事を信じているのだろうか。


ゆとり教育」なんて元々、さほど大きな意力を以て生まれた発想ではないと私は考えている。
これは単に、「詰め込み教育」へのアンチテーゼに過ぎない。なぜそのアンチテーゼが生まれたのか、
詰め込み教育が問題を内在していたからである。どのような問題か、それは言うまでも無いだろう。
既に多くの人々によってその欠点が指摘されていたと記憶している。私の記憶違いでなければ。
(最近物忘れが多く、その辺りは若干信頼が不足するところだけれど。)
ゆとり教育の根本的な発想は、教育の在り方を改善しようという、ただそれだけの事である。
詰め込み教育の性質は生徒に圧迫を与えるものであるから、そうではない形、圧迫を緩めようという
考え方の象徴として「ゆとり」という言葉を前面に置いたという、その程度のことだろう。


ここ数年来に行われたゆとり教育の方針は、全く成功を収めていないかもしれない。
結局のところ、掛け声の方が先行し、実績が伴わなかったのだろう。言い出しっぺが最後まで
面倒を見られない、または多くの現場がその方針について行けない、あるいは反対する、
結局小手先の路線変更で、本質が全く徹底されていない。そういった背景があるのだと思う。
詰め込み教育の手法は長年培われ、実績もある。なるほどそれなりの成果が上がるという主張も分かる。
しかしそもそも、詰め込み教育に無理を見出したから方針転換に迫られたのだという事を、忘れてはいないだろうか。


私は、学力低下の本質は、学習意欲の低下が原因だと思っている。
学習時間を削ったから意欲が低下したのだと言う人がいるけれど、??その理屈はずいぶん強引な気がする。
学習意欲が低下したのはなぜか。子供の興味が他に向いてしまったからだ。
他に向いてしまった子供の興味を、再び学習に向けさせなければ何もかもが始まらない。私はそう思っている。
学習は本来、それ程つまらない性質のものではない。つまらないのは、詰め込み教育である。
子供の意志に関わらず知識を押し付けようとすれば、子供は嫌がるに決まっている。
子供、と言うか人は、進んで興味を持った事は、どんな下らないことでも学ぼうとするのである。
子供にゆとりを与えるのは、自ら学んで欲しいという願いである。
与えたゆとりで子供が学ばなかったら? まあそれでもいいじゃないか。その時間は、勉強以外の何かを
経験するのである。
教える事は、本当に必要な事だけで良いのではないか。
補助線一本引けば解ける台形の面積を、わざわざ公式にして教える必要など無い。
円周率は3でいい。3.14だって近似に過ぎない。円に内接する6角形を想像し、
本当は3より少し大きいのだということを知っていればいい。


…といった考え方に、私は共感できるのだけれど、世の人は意外とそうでもないらしいね。