秋葉原の

死刑を覚悟しているつもりでも、拳銃を恐れるものなのでしょうか。


具体的な動機がはっきりしないというのは、つまりは大した動機などないという事なのではないかと思います。
自分で考えた方法ではないのでしょう。メディアで見たことをマネしてみた、行為に必然性はなかった。


私の場合、凶悪犯罪の犯人であっても、その人間を全否定するとは限りません。
そういうポリシーというよりも、今までの自分の傾向として、の意味です。
不謹慎の上塗りになるので、いま言葉を重ねることはしませんが、今までの日記の中で、何件かの凶悪犯の行為を
部分的に評価している場合があったと思います。彼らには大抵、理由がありました。常軌を逸していても、
発想からその結論としての行為に至るまで、一定の筋道がある。
許せない犯罪であっても、その彼らにはまた別の形としての人間らしさをもった何かが感じられた。
そういう相手であれば、その言葉にも耳を傾けようと思うし、刑の執行を静かに見届けようという気にもなります。


しかし模倣犯は違いますね。思慮が浅い上、やっていることは最悪。猿真似。彼らはクズです。


殺した人間の数でトップに立とうとでも考えていたのですかね。秋葉原を歩いている人間ひとりひとりに
歴史があり、膨大な数の出来事と人の関与があり、その成長に膨大な手間が掛かっていること、手間を掛けた人間がいること、
そういったことを想像することができないのか、その価値が大きいからこそそれを破壊することに興味を持つのか。
むしろ、後者の方がまだマシですね。価値の判らない馬鹿者にものを壊されることほど落胆することはありません。