人はなぜ働くのか

「人はなぜ働くのか」とは長い間漠然と心に引っ掛かっていた疑問なのだけれど、
このところ深く考え込む事があり、少しその片鱗が掴めてきた気がしている。


この事を考えていて、ある時はっと「労働の定義」が定まった気がした瞬間があった。
つまり、この疑問を考えるにあたって、そもそも労働とは何かという事が定まっていなければ
話は始まらないのだけれど、それを定義せずに考えているうちに、疑問を解くに適した
労働の定義が見つかったという事で。これは話としては逆なのだけれど、しかし私は
釈然としない思いを整理するためにこれを考えているのであって、私の都合としては
どちらが先でも構わないのだ。


人の働く理由として「生きるため、生活のため」と答えた人がいた。「金が欲しいから」と
答えた人がいた。これらの答えは一定の説得力があるとは思う。しかし私はどうもこの答えに
納得が行かなかった。理屈としては解らないでもないのだけれど、リアリティが伴わない
のである。このように答えた人は、本心からそう思っているのだろうか。
もしそれが真実であるのなら、仮に宝くじが当たって一生働かずに暮らせるだけの資産が
得られた場合、働くのをやめてもいいのだろうか。
働いている時分であれば、働くのが嫌だと愚痴をこぼす事はあるかもしれない。
しかし、働かなくてよくなり、働く事の呪縛から逃れてしまった後、働かずに暮らす事は
その当人にとって本当に歓迎すべき状態であるのだろうか。


働く理由として「自己実現のため」等となんだか高尚な理由を述べる人がいる。
これはこれで私は何だか偉そうな物言いが鼻に付くのだけれど、概ね核心を突いているのでは
ないかと思う。しかし、何か上滑りしているような印象もある。これではまるで、
死んでも賤しい仕事に就くつもりはないと言っているようではないだろうか。


私が最近考えて用意した理由は「報酬のため」である。
人は報酬を得るために働くのだと。この「報酬」は「金」である事もあるのだけれど、それ以外の、
例えば「労いの言葉」や「感謝」であったりもする。「報酬」とは「貰って自分が喜べる何か」である。
また、労働によって得られる金というのは、ただの金とは違うのだと思う。その金は
誰かが自分の労働の価値を認めて相応の対価として支払われるものであって、言ってみれば
「感謝」を具現化した存在であり、親の遺産のような何もしないで転がり込んでくるような種の
収入とは異なるものなのである。


労働によって得られる報酬をそのようなものと考えた場合、そもそもどういう行動を指して
「労働」と呼ぶべきかという事が定まってくる。
もし金を得る為の行動を労働と呼ぶのであれば、ボランティア活動は労働ではないし、
デイトレーダーやパチプロのようなものも労働ということになる。これにはやはり違和感が残る。
報酬を得るため(という曖昧な理由の)行動を労働と考えれば、ボランティア活動も
労働と呼べるだろうし、デイトレーダーもより多くの利益を上げるために努力しているのであれば
それはそれで労働と呼んでも構わない気がする。
おそらく私が言いたいのは「労働=金銭授受を伴うもの」ではないという事だろう。
この式が常に正しいとは思っていないのに、それが真実であるかのように語るから、色々な
訳の分からない疑問が生まれてくるのだろうと思う。
考えてみると、人の純粋な生き方、自分がどうしたいか、世界が本来どうあるべきかを思う時、
金はしばしば余計な要素として存在している。金のせいで人は惑わされ、誤った方向に進もうとする。金を無視すれば
正しい道ははっきりと示されているにも関わらず。


「労働」の意味はもっと広げて良さそうである。家庭内の家事、家族の介護、子供の養育、
学校へ通ったり勉強に励むことも労働と考えて良いのではないかと思っている。
何らかの価値を生産する行為を全て「労働」と呼べば良いかもしれない。
「頑張った自分へのご褒美」といった言葉が少し前に流行っていた。流行りものの詰まらない発想だと
私は思っていたけれど、このアイデアは今の私の考えとはよく合致する。
個人的な努力は、将来的に実を結ぶとしても短期的には報酬として現れない。その努力を理解する
人間もいない。この努力、すなわち労働の理由を見失わない為に、分かりやすい報酬で自分を釣ってやる
のは有効だろう。あるいはそれは、自分から自分への感謝として、その対価として
支払われているものであるのかもしれない。


働く理由はまた、生きる理由と強く関係しているものであるかもしれない、と思っている。
その辺りはまだ、よく考えられてはいない。


まだ煮詰まってない部分も多いのだけれど、最近そんな事を考えている、という話。