発展的に解消する

以前、「時間が無くてできない」という記事を書いたことがあって。

「時間が無くて」を理由とする人は、何年あってもその「やりたい事」に進展が無いのだ。
結局やる気がないのだと言ってしまえばそれまでだけれど、それだけで
結論付けてしまうのも思考停止というものだろう。
もっと的確に、一体何が不足しているのか。

「やる気がないから」という理解は、思考停止であると指摘している。
やる気なんて、出そうとして出るものなら苦労はないし、簡単な事なら出し方を教えてくれと
いう事になるし、まあ大雑把には相手の全否定であったりする。とにかく、建設的な回答ではない。
これはまあ、答えている方もあまり頭が良いわけではなく、より適切な方法を思い付かない
ためにこのような回答になってしまうのだろう。


「やる気がないから」という答え方は、1つ前の記事で書いた話と似ていて、相手の要望を
無視して自分の考えを正しいとする、そういう答え方だと思う。
それなりに正論ではあって、「時間が無くて」を理由にしてしまう人は結局問題と正面から
向き合っていないのだという事もある。だからやる気がないなどと言われてしまうのだけれど、
…本来我々が求めているのは問題を解決する事であって、問題が解決に向かわない回答を
追っていく事にはあまり意味がない。問題を解決するには、当事者が問題解決に歩き出す
ための意志を引き出さなければならない。
そしてそれは同時に、画期的なアイデアでもある。「やる気がないから」という境地を超え、
高い実現性があり、かつ普通の探し方では見つからない解だからだ。


三谷幸喜の演劇作品に「笑の大学」というものがあるのだけれど、この作品が抱えている
メッセージは「発展的に解消する」という考えに近いものがある、というか、この作品に
感心した私がそういう問題解決法こそ正義であると感じるようになったという方が近いのかも
しれないのだけれど。
軍国主義のまっただ中、この時代に喜劇など不謹慎であると数々の検閲、制限を課せられながら、
主人公の作家は検閲を加えられる度に新たな喜劇の表現を見出し、洗練させていく。
表面上は不適切でない表現と変貌させながら、笑いはより上質なものに深まっていく。


やり尽くされたゲームのプレイ動画では、新たな縛りを加えるものが多い。後発になる毎に
縛りはより過酷な制限が加えられたものとなっていくのだけれど、そのようなプレイでは
普通は気が付かないような奇怪な攻略法や、超人的なプレイが現れる。人はこれを見て
自分が全く可能性を突き詰めていなかった事に気が付くのである。
そんなたいそうなものですかというツッコミは置いといてくだあし


つまりまあ考えるのを止めちゃいけないですねってとこでしょうか。