核兵器と捕鯨問題と

日本に落とされた原爆に絡めて核兵器の是非を考える場合、その人個人の考えをある程度整理しておく必要があるのではないかと思う。


核兵器の許容ライン(分類は適当)

  • 原爆の使用は、許されないと思うか(=あなたが許さないか)
  • 原爆よりも人的被害の少ない核兵器の使用は、許されないと思うか
  • 絶対に使用されない核兵器の所有は、許されないと思うか
  • 原爆と同等の人的被害のある通常兵器の使用は、許されないと思うか


相手の主張の許容ライン

  • 戦争では、いかなる兵器の使用も許されるか
  • 自衛のために、核兵器の使用は許されるか
  • 報復のために、核兵器の使用は許されるか
  • (派生)核攻撃の報復のために、核兵器の使用は許されるか
  • (主に経済的な)自国の利益の保護のために、核兵器の使用は許されるか
  • 原爆の投下により結果的に終戦が早まった事を認める場合、その使用に一定の理を認めるか
  • 原爆の投下に至る経緯に、日本の責任は一切ないと思うか


報復が許されるのなら、日本はアメリカを核攻撃する権利がある?


認識の問題

  • 原爆が使用されなかった場合、日本はいつまで戦争を継続したと思うか
  • 原爆が使用されなかった場合、された場合に比べて日本の被害は増えるか、減るか


私は思う事がある。もし終戦が遅れていたら、ソ連の侵攻が始まっていたのだろう。
終結の形によっては、日本の一部はソ連の配下に置かれたことだろう。
ソ連には、アメリカのような穏和な統治は期待できなかったかもしれない。日露戦争では泥を掛けた国だ。
もっと不気味なのはその後の冷戦で、朝鮮戦争の舞台はあるいは日本であったかもしれない。
まあそんなのはもしもの話でかつ結果論でもあるのだけれど、
…しかし、実現しなかったからと言ってより不幸なパターンを無視して論じるのも、アンフェアな
事ではないかと思ったりする。


核兵器の是非の問題は、しばしば感情論に支配されている事があると思う。
そういうものかもしれない。なぜ人が死んではいけないのかの最も素直な答えは「イヤだから」
という感情的なものであるかもしれないから、こんな非人道的な兵器は使ってはいけないと
感情的に主張するという姿勢は、アリはアリかもしれない。


しかしここで私は反捕鯨団体が主張する、捕鯨に反対する理由を思い出す。
曰く「鯨は頭がいいから」「可哀想だから」
非論理的で愚かな主張だなと思う。
ではしかし、私が核兵器を拒絶する理由は、そういうものとは違うのだろうか。
自己を正当化するために「人と鯨は違うから」と私は主張するのだろうか。
「鯨と豚は違うから」とは違うのだろうか。
「人と鯨は違うけど、鯨と豚は同じだから」とでも言うのだろうか。馬鹿馬鹿しい。


裏を返せばここに「核兵器を是とする人々」「捕鯨を否とする人々」を理解するための
ヒントがあるのかもしれない。


その他の一つの懸念。日本では「原爆は否である」という主張にほぼ支配されている。
その悪影響として、原爆を肯定するような主張をすると袋叩きに遭いかねない空気がある。
そう、それは全く、はだしのゲンで読んだ「非国民」という非難によく似ている。


人は過ちに学んでほしい。自分が学ぶのは骨が折れるが、他人には学ぶ事を大いに勧めたい。